崇徳院という人物をご存知でしょうか。「院」という名前からわかるように天皇だった方ですが、実は怨霊として古くから知られた存在でもありました。崇徳院が怨霊になった経緯やそれが伝わった歴史、そしてそれにまつわる観光スポットなどを紹介します。
【京都】日本三大怨霊の一つ?「崇徳院」とは?
京都には歴史を感じることができる観光スポットがたくさんあるのですが、中にはちょっと怖い、怨霊にまつわる場所もあります。怨霊伝説は落語や物語の形で受け継がれ、現在まで伝わっているのですが、その中でも知られているのが「崇徳院」です。崇徳院の怨霊伝説の歴史や関係するスポットについて紹介します。
「崇徳院」の歴史
さて、怨霊伝説の中でも特によく知られる「崇徳院」ですが、これはいったいどのようなものなのでしょうか。実は崇徳院というのは実在した人物のことで、しかもこの人は天皇になった方でもあるのです。
天皇になっているということは高い地位にあった人であるということであり、怨霊にならねばならない理由などなさそうです。そこで崇徳院はどんな人物なのか、そしてなぜ怨霊になったのかということについて紹介します。
「崇徳院」とはどのような人?
崇徳院は1119年、鳥羽天皇と中宮の藤原璋子(待賢門院)の子供として生まれました。父鳥羽天皇が譲位したことで1123年、数えでわずか5歳(満年齢では3歳)で天皇になりました。1129年に当時の関白である藤原忠道の娘が入内するのですが、この二人の間には子供は生まれません。
この年、父の鳥羽天皇が院政を開始するのですが、鳥羽天皇は藤原得子という女性を寵愛し、1141年、この得子が産んだ子供に譲位するように崇徳院に迫ります。仕方なく崇徳院は譲位しこの子供は近衛天皇となりました。
近衛天皇は崇徳院の養子となっていたのですが、ここまでの経緯から実は「皇太弟」であると言われ、崇徳院は恨みを持ちます。しかも近衛天皇は病弱で1155年に17歳で亡くなり、後継を決める必要に迫られました。
崇徳院には仕えていた女房との間に生まれた重仁親王がいたのですが、結果的には彼ではなく、得子のもう一人の養子である守仁親王の父雅仁親王が立太子せずに即位し、後白河天皇となります。
後白河天皇は言うまでもなく大人であり、崇徳院は院政を行い、権力を握ることが事実上できなくなります。このような状況のなか、1156年、鳥羽法皇が崩御すると、息子である崇徳院は対面すらできず、そのうえ「国家を傾け奉らんと欲す」という噂まで流れます。
この結果起こったのが1156年の保元の乱です。結果的に敗れた崇徳院は讃岐国に流され、そこで1164年に亡くなります。崇徳院は京都に戻ることなく亡くなったのです。
歌人としての「崇徳院」
今述べたように、後白河天皇は大人だったことから、崇徳院は院政をしき、権力を持つことができなくなります。そこで崇徳院は和歌に没頭するようになり、「久安百首」を作成し、「詞花和歌集」の編纂を行います。
また、配流された讃岐国でも和歌を詠んだり、仏教に帰依したりしていたと言われており、崇徳院は文化人としても知られるようになりました。
この崇徳院が詠んだ和歌の一つが「小倉百人一首」に取られています。それは「瀬を早み岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞ思ふ」という和歌なのですが、この和歌は落語の題材となりました。
怨霊になった「崇徳院」
さて、崇徳院という人物の歴史について述べてきましたが、このように崇徳院はことごとく権力の中枢から外された人物です。しかも父の鳥羽天皇は近衛天皇が崩御したのは崇徳院のせいであるとしていたように、父からうとまれました。
しかも讃岐国に配流されたあとでお経の写本を作った崇徳院は、京都の寺に奉納してほしいと朝廷に差しだしたものの、後白河天皇はこれを「呪詛がこめられているかもしれない」と突き返します。すると崇徳院は舌をかみ切り、その血で「日本国の大魔縁となる」と述べたと言います。
崩御後も崇徳院は罪人として扱われたのですが、1177年になると大火など多くの事件が起こり、崇徳院の怨霊のせいだという説が流れます。前年には後白河天皇に近い人物が相次いで亡くなり、このことで怨霊伝説が広まることになったのです。
「崇徳院」の登場する本
さてこの崇徳院怨霊伝説ですが、京都の天皇家や貴族の間で伝わっているだけならば、いくら歴史的に有名な保元の乱に関係したものだからといって今まで伝わることはなかったでしょう。この伝説は京都の貴族にとどまらず、物語となり、一般の人々にも広く知られるようになります。
たとえば「保元物語」には先ほど述べた、血で言葉を書き付けた話が既に出てきます。また「源平盛衰記」の中には、亡くなった崇徳院を白峯陵に葬る際に激しい雨になり、やむのを待っていたら血がこぼれ、下の石が真っ赤になったという話もでてきます。
また、「太平記」の中では崇徳院は愛宕山にいる天狗の棟梁であり、金の鵄の姿で天下を大乱に導く相談をしていたという話まで出てくるなど、その怨霊伝説はどんどん肥大化していくのです。
「雨月物語」
崇徳院の怨霊伝説は江戸時代になると、物語のネタとして描かれるようになります。江戸時代後期に上田秋成によって書かれた「雨月物語」の巻一「白峯」の中に崇徳院が登場します。
ある時、白峯に西行法師が参拝に訪れます。西行はその昔、崇徳院の父鳥羽天皇の下北面武士をしており、旧主でもありました。読経し歌を詠んでいると人影が現れ、歌を返してきました。それが成仏できず怨霊となった崇徳院と知った西行は、対話をして歌を詠みました。すると穏やかな表情になり、消えていきました。
この後、崇徳院の墓は整えられて、御霊としてあがめられるようになったという物語です。雨月物語は小説や映画などの題材にもなるなど、現代にいたるまで高い人気を誇る書籍であり、この話も広く知られるようになりました。
「椿説弓張月」
一方、「椿説弓張月」は滝沢馬琴により書かれた小説です。馬琴というと「南総里見八犬伝」が有名ですが、それと並ぶ代表的な作品として知られます。この物語は「保元物語」に出てくる鎮西八郎為朝と琉球王朝開闢の秘史を描く伝奇小説です。
この物語の前編と後編は源為朝の活躍を「保元物語」にほぼ忠実に描いていくのですが、この為朝が主として仕えた上皇が崇徳院であり、為朝が危機に陥ると怨霊となった崇徳院が助けに訪れるというストーリーになっています。
滝沢馬琴は日本で最初に原稿料で生計を立てた、つまり職業として小説家になった人と言われ、書く本がいずれも大ヒットしました。「椿説弓張月」もまた大ヒット作となり、それに伴って崇徳院怨霊伝説が広まっていったのでしょう。
「崇徳院」以外の三大怨霊
さて、崇徳院についてはどのような人物で、またなぜ怨霊と呼ばれるようになったかと言うことについて述べてきました。最初に「三大怨霊」の一つと述べたように、日本にはこの崇徳院の他にあと二人、怨霊になったと言われる歴史上の人物がいます。
その二人とは菅原道真と平将門なのですが、この二人はなぜ怨霊になってしまったのでしょうか。またその結果、どのようなことが起こったのでしょうか。そのことについて紹介しましょう。
菅原道真
学問の神様として知られる菅原道真は、宇多天皇の忠臣として登用され、右大臣にまで出世します。しかし謀反を計画したと言われ、大宰府に流され、その地で903年に亡くなりました。
ところがその後、道真と対立していた人物など朝廷の重臣たち、さらには醍醐天皇の皇子が亡くなります。さらに930年、朝議中の清涼殿に落雷が起こり、多くの人々が亡くなりました。しかもそれをみた醍醐天皇も3ヶ月後に亡くなったことから、これらは道真の怨霊によるものとされたのです。
そのため、朝廷は火雷神を祀っていた京都の北野神社に道真を祀り、さらに道真が葬られた大宰府にも社殿を作り道真を祀りました。これがそれぞれ北野天満宮と太宰府天満宮です。さらに道真を学問の神として祀る祭文が掲げられるなどしています。
平将門
平将門は関東の豪族で、平氏一族の抗争から関東一円にまで広がるいくさを起こします。この時国府を襲い「新皇」と名乗ったことで朝敵とされ、後に討伐されました。歴史の教科書で有名な「平将門の乱」(承平天慶の乱)です。
この時、将門は首を刎ねられ、京都の七条河原にさらされたのですが、いつまでも目を見開き、歯ぎしりしているようだったと言われます。またこの首が胴体を求め東の方に飛び去ったという伝説があり、各地に将門の首塚が作られることになりました。
特に東京にある首塚に関しては、移転などをしようとすると事故や災厄が起こると言われており、現在でも怨霊として扱われていることがわかります。
「崇徳院」は落語でも有名
さて、このように歴史的にも怨霊としてとらえられ続けていた崇徳院ですが、実はこの「崇徳院」という名前の落語があります。落語と言えば面白いものと言うことで今でも人気が高く、メディアはもとより寄席などにも多くのファンの方が集まりますが、怨霊の出てくる落語なのでしょうか。
実は落語の崇徳院というのは怨霊が出てくる怖い話ではありません。先ほど述べたように、崇徳院には歌人としての側面もあるのですが、紹介した小倉百人一首がモチーフになっている落語なのです。
「崇徳院」とはどのような噺?
落語「崇徳院」はもともと、上方落語で生まれたものであり、後に東京でも演じられるようになりました。有名な落語家の方が寄席などで演じているほか、上方のお笑いを題材にしたドラマなどでも出てきている人気の演目です。
ある商家の若旦那が、美しい娘に一目ぼれし、恋煩いになってしまいます。この娘が渡した短冊に書かれていたのが、先ほど紹介した崇徳院の和歌でした。そこでこの商家に出入りしている町人がその娘を探して、あちこち走り回るという、滑稽噺となっています。
最後のサゲの部分にいくつかのバリエーションがあるほか、ストーリーの一部を省略する演じ方もあるようです。もともとは30分程度かかる大ネタなので、中入り前やトリの演目となることが多いので、落語ファンにはおすすめの演目でもあります。
「崇徳院」のバリエーション
この落語「崇徳院」にはいくつかのバリエーションがあります。今述べたように、もともと崇徳院自体にもサゲなどにバリエーションがあるのですが、違うタイトルになっているものがあります。
「皿屋」は最後のサゲの部分で、崇徳院は鏡が落ちて「割れても末に買わんとぞ思う」と述べるところで、水壺もしくは花瓶を割るという話になっているものです。また「花見扇」では恋のきっかけが花見で、和歌が書かれた扇子を受け取る、そして最後に百人一首かるたにちなんだサゲになっているという違いがあります。
このように、歴史的に崇徳院は怨霊とされ、江戸時代にも怨霊として小説などに登場する一方で、落語では滑稽噺のネタになるなど、崇徳院は江戸時代には広く知られていた人物ということがわかります。このあたりの違いを知るのもおすすめです。
「崇徳院」に関連する観光スポットと見どころ
さてそれでは、最後に崇徳院に関係する観光スポットに行ってみましょう。今述べたように崇徳院は怨霊とされたため、それを鎮めるために神社などが作られました。それらは現在では観光スポットとなっており、歴史ファンの方を中心に人気のスポットとなっています。
それでは崇徳院に興味を持った方に特におすすめしたい、観光スポットについていくつか紹介していきましょう。これらの観光スポットは崇徳院を祀っているなど、ゆかりがある点でおすすめというだけでなく、人気スポットともなっているのです。
【京都】白峯神宮
崇徳院に関連する観光スポットとしてまず挙げられるおすすめの場所が、京都市上京区にある「白峯神宮」です。この地はもともと蹴鞠の宗家であった飛鳥井家の屋敷があったところなのですが、幕末の孝明天皇が崇徳院の怨霊を慰めるため神霊を京都に移すよう命じました。
孝明天皇が崩御した後、子供の明治天皇がそれを引き継ぎ、1868年創建されました。その後同様に藤原仲麻呂の乱で配流された淳仁天皇も合祀され、現在に至っています。
このように歴史的な事件に関係した人物を祀る神社である一方、蹴鞠の家の跡地にあるということから、摂社地主社は蹴鞠の守護神とされており、サッカーなど球技に関わる方にも守護神としてぜひおすすめしたい人気の神社となっています。
【香川】香川県埋蔵文化財センター
「香川県埋蔵文化財センター」は香川県坂出市にあります。この場所はもともと讃岐国の国府があったところで、讃岐に配流された崇徳院にゆかりの場所が周辺にたくさんあることから、歴史ファンにはおすすめの観光スポットとなっています。
また、こちらは埋蔵文化財センターということで、周辺で発掘された遺物なども多く所蔵されており、さらに三大怨霊の一人である菅原道真も讃岐国国司をつとめたことから、こちらに関するものもさまざま所蔵されています。
専門的に学ぶこともできるので、歴史が好きという方にはぜひおすすめしたい観光スポットと言っていいでしょう。質問したいことなどあれば、ぜひ気軽に質問してみることをおすすめします。観光だけでなく、子供の自由研究などでもおすすめです。
【京都】崇徳天皇廟(粟田宮)
先ほど述べたように、崇徳院は崩御後すぐは罪人として扱われており、後白河天皇などはその死を無視したほどでした。ところがさまざまな事件が起き、怨霊伝説が広まると、その魂を鎮めるために、1184年に保元の乱の古戦場である春日河原に「崇徳天皇廟」(粟田宮)が作られました。
しかし応仁の乱でそれは荒廃し、後に1467年に再興されます。それが現在の「崇徳天皇廟」(粟田宮)です。京都の有名観光スポットの一つ、祇園にあることから、観光がてらに参拝するのもおすすめで、こちらも歴史ファンを中心に多くの方が参拝しています。
日本三大怨霊の一つ「崇徳院」をチェックしてみよう!
崇徳院に関しては、歴史の授業で「保元の乱」の関係で学ぶ方も多いのですが、実はその背景にはいろいろなものがありました。怨霊と言われて恐れられ、物語などにも出てくる一方で、落語のネタにも出てくるというのは面白いところです。ぜひ崇徳院に関係したスポット巡りをおすすめします。


