温泉ソムリエの資格を持つ添乗員ライターがお届けする旅行情報。今回は、長野県諏訪市の諏訪湖畔に建つ国指定重要文化財「片倉館」です。昭和初期に建てられた洋風建築の中で天然温泉に浸かるという、ほかでは得がたい体験が待っています。製糸業で栄えた片倉財閥の歴史と、”千人風呂”の名で知られる大浴場の魅力を、添乗員ライターが事実に基づいてお伝えします。
施設情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 施設名 | 財団法人 片倉館(国指定重要文化財) |
| 営業時間 | 10:00〜20:00(受付は19:30まで) |
| 定休日 | 毎月第2・第4火曜日 |
| 住所 | 〒392-0027 長野県諏訪市湖岸通り4-1-9 |
| 電話 | 0266-52-0604 |
| アクセス(電車) | JR中央本線「上諏訪駅」より徒歩約8〜10分 |
| アクセス(車) | 中央自動車道「諏訪IC」より諏訪湖方面へ約7km |
| 駐車場 | 100台(無料) |
入浴料金(浴場棟)
| 区分 | 料金 |
|---|---|
| 大人 | 850円 |
| 小人(3歳〜小学生) | 550円 |
「文化財の温泉」に抱く素朴な疑問~快適さとの折り合い
重要文化財に指定された建物というと、「見学はできるが使えないもの」というイメージを持たれる方も少なくないでしょう。片倉館は昭和3年(1928年)の竣工当時から引き継がれてきた施設であるがゆえに、現代の温泉施設が当たり前のように備えている露天風呂やサウナは存在しません。浴室も内湯のみです。
加えて、千人風呂の深さは1.1m。成人でも胸あたりまで湯が来る立ち湯スタイルであり、泳いだり寝湯をしたりするゆったりとした湯浴みは想定されていません。夏季は窓の開閉が制限され、蒸し暑さを感じる声もクチコミに見られます。洗い場の数も多くはなく、混雑時には順番待ちになることもあります。
これらは、文化財建築を現役で使い続けることの制約です。あくまで「昭和初期の大衆浴場の姿を今に伝える施設」として理解してのぞむことが、満足につながります。
片倉財閥という名の「シルクエンペラー」~建設の背景

片倉館を語るには、片倉財閥の歴史を外すことができません。
明治後期から大正時代にかけて、長野県諏訪地方は国内有数の製糸業の集積地として栄えました。片倉組(のちの片倉製糸紡績株式会社、現・片倉工業)はその中核を担い、「シルクエンペラー」と称されるまでの繁栄を遂げます。製糸業は農村の女性たちを大量に雇用する産業であり、工女たちの労働と生活環境の整備が、会社の社会的責任として意識されるようになっていきました。
二代目当主・片倉兼太郎はヨーロッパを視察した際、大衆のための温泉保養施設や社交施設が地域社会に根付いている姿に感銘を受けます。「諏訪の人々にも同様の施設を」という思いのもと、創業50周年を記念して建設されたのが片倉館です。昭和3年(1928年)10月竣工。設計は、東京帝国大学(現・東京大学)造家学科出身で台湾総督府庁舎など多くの近代建築を手掛けた森山松之助が担いました。
建物は浴場棟と会館棟の2棟からなり、ゴシックリバイバル(ゴシック復興様式)に近い洋風意匠が用いられています。窓や切妻、レリーフなどの細部に各国の様式が巧みに組み込まれた独自の建築美は、竣工から約100年を経た現在も外観・内装ともにほぼ当時のままを保ちます。片倉館は2011年(平成23年)に国の重要文化財(建造物)に指定されており、道後温泉本館などと並ぶ現役稼働中の文化財温泉施設として知られています。
なお「千人風呂」という名称は、一度に千人が入れるという意味ではなく、かつて1日に1,000〜1,200人が利用したことに由来するとされています。
千人風呂の空間体験~大理石と玉砂利の浴槽
片倉館最大の見どころは、浴場棟1階に設けられた千人風呂です。
浴槽は縦7.5m×横4m×深さ1.1mの大理石造り。男女とも同一のデザインと広さで設計されており、最大で100人が同時に入浴できる規模を誇ります。底部には黒い玉砂利が敷き詰められており、立ったまま歩くと砂利が足裏を自然に刺激します。浴槽の縁には腰掛けられる段差が設けられており、そこに腰を下ろすとちょうど肩まで湯に浸かれる深さになります。
浴室の内装は、ステンドグラスの窓と周囲の彫刻・装飾に彩られており、教会のような厳かな雰囲気を持ちます。温泉は諏訪市の七ツ釜配湯センター(三ツ釜源湯・あやめ源湯・柳並源湯の混合泉)から引かれた単純温泉(低張性弱アルカリ性高温泉)で、泉温は源泉で63℃。加水・循環を行った上で浴槽に供給されており、関節痛・神経痛・筋肉痛・冷え性などへの効能が認められています。主浴槽のほかにジャグジー浴槽も設置されています。
タオル・バスタオル・カミソリ・歯ブラシ・シャワーキャップなどのアメニティは受付で購入できるため、手ぶらでの来館も可能です。靴はリターン式ロッカーへの預け入れが必要ですので、100円硬貨を1枚準備しておくと手続きがスムーズです。
会館棟と庭園~温泉だけではない片倉館の奥行き

片倉館の魅力は、浴場棟にとどまりません。隣接する会館棟は昭和初期の社交施設としての佇まいをそのままに残した空間で、200畳もの大広間・各種和室・ホールなどから構成されています。洋風の外観に対して内部は純和風という対比は、近代建築の折衷的な美意識を体現するものです。
会館棟の見学は予約不要で随時対応(有料)しており、大人500円で利用できます。ガイド付き見学ツアー(1,000円・5名以上で催行・前々日17:00までに電話予約が必要)も定期開催されており、13:30と15:30の2回出発となっています。冬期(11〜2月)は見学時間が10:00〜16:30に短縮されます。
浴場棟の2階には休憩室と食堂が設けられており、入浴後に信州の食材を使った料理を楽しむことができます。屋上への出入りも可能で、晴れた日には諏訪湖と周囲の山並みを一望できます。浴場棟入口に隣接する庭園には噴水池と石塁が配置されており、これらも重要文化財の指定範囲に含まれています。
浴場棟の隣には諏訪市美術館~徒歩圏で広がる文化体験
片倉館の敷地と隣接する形で、諏訪市美術館が建っています。昭和31年(1956年)開館の長野県初の公立美術館で、建物そのものが国の登録有形文化財に指定されています。日本画・彫刻・工芸など多ジャンルの作品を収蔵しており、郷土作家の作品展示が充実しています。
上諏訪駅から片倉館へ向かう道中には、高島城(復元天守)が徒歩約10〜15分の距離にあります。かつて諏訪湖と河川に囲まれていたことから「諏訪の浮城」と呼ばれた高島城は、豊臣政権期に築城され幕末まで高島藩主の居城として使われてきた歴史を持ちます。現在は高島公園として整備されており、桜の名所としても知られています。
諏訪湖沿いを北へ歩けば、無料の足湯や間欠泉センターへも10〜15分程度でアクセスできます。上諏訪温泉一帯には公衆浴場が60以上集積しており(長野県内最多・全国4位)、湖畔の散策と温泉文化のどちらも同日に楽しめる環境が整っています。
上諏訪温泉のおすすめ宿泊施設
上諏訪温泉 RAKO華乃井ホテル
諏訪湖に面した眺望と、諏訪圏随一の規模を誇る温泉ホテルです。諏訪湖を望む露天風呂と名物の地酒風呂が人気で、屋内プールや屋上テラスも備えています。和室・洋室ともに選択肢が多く、ビジネス利用にも観光拠点にも対応します。JR上諏訪駅西口から予約制シャトルバス(14:30〜17:30運行)が利用できます。中央自動車道・諏訪ICから車で約8分。
ホテル鷺乃湯
片倉館から徒歩2〜3分に位置する老舗旅館です。明治38年頃に入浴施設として創業し、明治44年に諏訪湖周辺で初の宿泊施設として開業した百余年の歴史を持ちます。自家源泉(琥珀色の含鉄温泉)を使った源泉かけ流しの露天風呂が自慢で、日本画家や書家に愛された数寄屋風の設えが随所に残ります。日本庭園を眺めながらの足湯もあり、信州牛しゃぶしゃぶを含む会席料理も高く評価されています。JR上諏訪駅より徒歩約8分。
上諏訪温泉 ぬのはん
嘉永元年(1848年)創業の老舗旅館「ぬのはん」は、諏訪湖畔に立地し『プロが選ぶホテル・旅館100選』料理部門で2011年から連続受賞を続ける料理自慢の宿です。信州の旬の素材を使った創作会席は特に評価が高く、全室禁煙で落ち着いた滞在が叶います。上諏訪温泉の温泉を引いた浴場で、湖を望む眺望も魅力の一つです。JR上諏訪駅より徒歩約7〜8分。
まとめ
上諏訪温泉「片倉館」は、日本の近代産業史と温泉文化が交差する場所です。製糸業で得た富を地域の人々に還元するために建てられた施設が、約100年の時を経て今も現役であり続けるという事実は、単なる観光スポットを超えた重みを持っています。千人風呂の玉砂利の感触、大理石の縁に腰を下ろした瞬間の湯の深さ、ステンドグラス越しの光。これらは現地に行かなければ体験できないものです。
宿泊するなら、片倉館のすぐ隣に構えるホテル鷺乃湯が最も距離的に近く、翌朝あるいは夕刻にもう一度片倉館を訪れやすい立地にあります。上諏訪の湯と歴史を、ぜひ1泊かけてゆっくりとたどってみてください。
