入園料150円で江戸の名園へ。旧芝離宮恩賜庭園の歴史と見どころを徹底解説

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入園料150円で江戸の名園へ。旧芝離宮恩賜庭園の歴史と見どころを徹底解説
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添乗員ライターがお届けする旅行情報。今回は、JR浜松町駅から徒歩わずか1分という都心随一のアクセスを誇りながら、江戸初期の大名庭園が今もそのまま残る「旧芝離宮恩賜庭園」をご紹介します。

東京・港区の一角に静かに広がる約43,175㎡の庭園は、高層ビルやモノレールに囲まれながらも、350年以上前に築かれた石組や潮入の池の面影を今日に伝えます。一般入園料はわずか150円。都内に残る江戸初期の大名庭園として、国の名勝にも指定された文化財庭園を、その濃密な歴史とともに深く掘り下げます。

項目内容
正式名称旧芝離宮恩賜庭園(きゅうしばりきゅうおんしていえん)
所在地〒105-0022 東京都港区海岸1-4-1
開園時間午前9時〜午後5時(入園は午後4時30分まで)
休園日年末年始(12月29日〜1月3日)
入園料一般150円、65歳以上70円、小学生以下・都内在住在学の中学生 無料
無料公開日みどりの日(5月4日)、都民の日(10月1日)
アクセスJR山手線・京浜東北線「浜松町駅」北口より徒歩1分/都営浅草線・大江戸線「大門駅」より徒歩3分
駐車場なし
旧芝離宮恩賜庭園の入園料・最新情報(2026年5月現在)
目次

ビルとモノレールに囲まれた江戸の庭園

上空から見た旧芝離宮恩賜庭園と東京湾
上空から見た旧芝離宮恩賜庭園と東京湾

旧芝離宮恩賜庭園の最大の特徴であり、多くの来園者が最初に抱く率直な印象は、この「時代のギャップ」にあります。JR浜松町駅ホームから庭園内の緑が視界に入るほど近く、東京モノレールの高架が庭園のすぐ脇を走り抜けます。かつて江戸湾の海水を池に引き込んでいた潮入の庭園が、現代の高層オフィスビル群と隣り合わせで存在している——この景観は東京ならではのものといえます。

ただし、この立地条件は庭園本来の姿が失われていることも意味します。明治以降の鉄道敷地の拡張によって敷地の一部が削られ、かつて庭園に面していた海の眺望は埋め立てによって完全に遮断されました。350年前、大久保忠朝が設計した当初の「潮入の庭」の全景は、現代において完全な形では体験できません。それを踏まえた上でもなお、残された庭園空間の密度と歴史の重さは、都心の文化財として十分な価値を持ちます。

将軍の御鷹場から江戸の名園「楽壽園」へ

池と緑の旧芝離宮恩賜庭園
池と緑の旧芝離宮恩賜庭園

旧芝離宮恩賜庭園の歴史を語るには、まずこの土地がかつて海であったという事実から始めなければなりません。明暦年間(1655〜1658年)頃に海面を埋め立てて造成されたこの地は、当初は徳川家の御鷹場として管理されていました。

転機が訪れたのは延宝6年(1678年)のことです。老中に就任した大久保忠朝が、4代将軍・徳川家綱から約1万378坪(約35,000㎡)の埋立地を拝領します。大久保家はかつて徳川家康・秀忠・家光の3代に仕えた名家でしたが、先代・忠隣の時代に失脚し、長らく不遇の時代を過ごしていました。忠朝は将軍の小姓として出仕し、恩顧を受けて老中に昇り詰めた人物です。この拝領地を得た忠朝は、藩地である小田原から庭師を呼び寄せ、本格的な大名庭園の造営に着手しました。

「楽壽園」誕生——貞享3年(1686年)の作庭

完成した庭園は「楽壽園」と命名されました。庭園研究の権威である龍居松之助によって発見された資料『楽寿園記』(貞享3年記)によれば、当時の庭園には「観日荘」と名付けられた殿舎や「月波」と扁額をかけた楼閣があり、海水を引き入れた「潮入の池」がすでに存在していたことが記されています。さらに東側には馬場と弓の射場が設けられ、武士の庭としての体裁も整えられていました。

庭園の造りにおいて特筆すべきは、忠朝の藩地・小田原から大量の根府川石(溶岩でできた複輝石安山岩)が運び込まれた点です。護岸の石遣い、泉水の飛び石に至るまで、この特徴的な火山岩が用いられています。表面に穴が開いていたり尖っていたりする、整形されていない火山岩をそのまま使った護岸は、他の大名庭園がなだらかな石で護岸を整える手法をとるのとは対照的で、旧芝離宮ならではの個性となっています。

九つの時代を経た庭園の変遷

「楽壽園」はその後、約140年にわたって大久保家の庭園として維持されましたが、文政元年(1818年)に第7代藩主・大久保忠真が老中就任に際して上屋敷を江戸城近くに移したことで、大久保家の手を離れます。以降は下総国佐倉藩主・堀田家、御三卿の清水徳川家(4代・斉明)と次々に所有者が変わりました。

弘化3年(1846年)には御三家の一つ、紀州徳川家が拝領し、「芝御屋敷」と称されるようになります。明治維新後の明治4年(1871年)には有栖川宮熾仁親王邸となり、明治8年(1875年)に宮内省が買い上げ、翌9年(1876年)に正式に「芝離宮」となりました。離宮時代には外国の賓客をもてなす迎賓館として機能し、園内には洋館も新設されています。

しかし大正12年(1923年)の関東大震災が庭園に壊滅的な被害をもたらします。建物と樹木のほとんどが焼失しました。翌大正13年(1924年)1月、当時の皇太子(のちの昭和天皇)のご成婚を記念して東京市(現・東京都)に下賜され、園地の復旧・整備を経て同年4月20日、「旧芝離宮恩賜庭園」として一般公開が始まりました。昭和54年(1979年)6月には文化財保護法による国の名勝に指定され、現在は公益財団法人東京都公園協会が管理・運営しています。

回遊式泉水庭園の醍醐味——大泉水を中心とした空間設計

池が中心となっている旧芝離宮恩賜庭園
池が中心となっている旧芝離宮恩賜庭園

旧芝離宮恩賜庭園は「回遊式泉水庭園」の典型として知られています。池を中心に据え、その周囲を歩きながら変化する景観を楽しむ構造は、江戸初期の大名庭園の特徴を色濃く残しています。面積約9,000㎡に及ぶ大泉水を核として、複数の島、築山、石組、砂浜が巧みに配置されています。

大泉水と潮入の面影

現在の大泉水は淡水ですが、かつては江戸湾の海水を直接引き入れた「潮入の池」でした。潮の干満によって池の水位が変動し、それに合わせて景観が刻一刻と変化する様式は、江戸初期の臨海部大名庭園に特有のものです。園内には「海水取り入れ口跡」が残されており、かつての潮入機能の名残を見ることができます。現在、都内で潮入の機能を実際に維持しているのは浜離宮恩賜庭園のみであり、旧芝離宮恩賜庭園はその面影を石遣いと地形の中に留めています。

西湖の堤——江戸の知識人が憧れた中国の絶景

大泉水の中央に向かって伸びる石造りの堤「西湖の堤」は、中国・浙江省杭州にある名勝「西湖」の蘇堤を模したものです。西湖は古来より詩歌や絵画の題材として珍重されてきた中国随一の景勝地であり、江戸時代の文化人・趣味人たちにとって憧れの場所でした。実際に中国へ渡ることなど叶わない時代に、庭園の中に西湖の景色を再現するという試みは、当時の大名文化の知的水準と美意識の高さを示しています。なお、同様の「西湖の堤」は小石川後楽園にも存在し、二つを見比べるのも興味深い視点です。

中島の石組——蓬莱山の世界観

大泉水の中央に浮かぶ中島は、中国思想における仙人の住む伝説の山「蓬莱山」を表現した石組が施されています。この石組は作庭当初から存在するとされており、楽壽園の時代から変わらぬ姿で350年以上の歳月を経てきました。中島へは「八つ橋」と「西湖の堤」の2本の橋でつながっており、訪れる者に小島という別世界への移行を演出します。

大島・鯛橋・根府川山

大泉水の南側に位置する大島は園内最大の小島で、「鯛橋」と呼ばれる一枚岩の橋で陸地と結ばれています。鯛の形をした根府川石でできたこの橋は、その独特の造形で来園者の目を引きます。大島の隣にそびえる根府川山は、忠朝の藩地・小田原から運び入れた火山石(根府川石)を用いて築かれた築山です。

唐津山・大山・芝生広場

旧芝離宮恩賜庭園の大山
旧芝離宮恩賜庭園の大山

園内には複数の築山が設けられています。唐津山は、大久保忠朝がかつて唐津藩主を務めていたことにちなんで名付けられたとされます。大山は園内最も高い場所に位置し、ここからは庭園全体を見渡すパノラマを楽しむことができます。南西に位置する芝生広場は、泉水から最も離れた静かなエリアで、庭園内の景観変化を感じながら休憩するのに適しています。

枯滝の石組・砂浜・雪見灯篭

山間を流れ落ちる滝を石組だけで表現した「枯滝」は、実際の水を用いずに流れを暗示する枯山水の技法です。川床に相当する部分が通路として整備されています。大泉水に面した「砂浜(洲浜)」には、細かい砂粒が波打ち際の雰囲気を再現しており、そこに佇む大きな「丸雪見灯篭」が庭園を代表するシンボルとなっています。この灯篭は離宮時代に設置されたもので、脚部が安山岩、それ以外の部分が砂岩で造られています。

石柱——戦国時代の門柱が語る歴史

庭園内には、一見すると目的不明な古い石柱が残されています。これは大久保忠朝が小田原藩主を務めていた時代、後北条氏に仕えた戦国武将・松田憲秀旧邸の門柱を運び入れたものと伝えられています。5代将軍・徳川綱吉を上屋敷に迎えた際に茶室の柱として使用されたと推定されており、庭園の中に戦国時代の記憶が物理的な形で残存している貴重な遺構です。

九尺台——明治天皇が海を望んだ高台

「九尺台」と呼ばれる高台は、明治8年(1875年)に明治天皇がここから海での漁や海の景色を楽しんだと伝えられる場所です。当時の芝離宮が海岸に面した離宮であったことを、この小さな高台が静かに物語っています。

150円で訪れる、都心最古の大名庭園

旧芝離宮恩賜庭園の雪見灯篭
旧芝離宮恩賜庭園の雪見灯篭

旧芝離宮恩賜庭園の最も際立った魅力のひとつは、一般入園料150円という低廉さです。都立文化財9庭園のうち、小石川後楽園や六義園、浜離宮恩賜庭園などは300円以上の入園料が必要であるのに対し、旧芝離宮恩賜庭園は最も低い水準に抑えられています。みどりの日(5月4日)と都民の日(10月1日)は無料公開され、年間パスポート(旧芝離宮恩賜庭園のみ)は一般600円で発行されています。

都立文化財9庭園共通の年間パスポートも一般4,000円で入手でき、浜離宮恩賜庭園・小石川後楽園・六義園・旧岩崎邸庭園・向島百花園・清澄庭園・旧古河庭園・殿ヶ谷戸庭園と旧芝離宮恩賜庭園の9庭園すべてを1年間何度でも利用できます。江戸の大名文化に興味を持つ方にとって、東京の大名庭園を体系的に巡る際の出発点として、この庭園は最適な選択肢です。

四季の植栽——一年を通じた花の庭

旧芝離宮恩賜庭園の桜
旧芝離宮恩賜庭園の桜

旧芝離宮恩賜庭園では、季節ごとに異なる植物が庭園を彩ります。

冬から春先にかけては、ロウバイとスイセンが穏やかな香りを漂わせ、3月には梅、木瓜、雪柳が次々に開花します。4月上旬から中旬はソメイヨシノを中心とした桜の見頃となり、続いてハナカイドウ、ツツジ、シャクナゲ、藤と花のリレーが続きます。とくに4月中旬から下旬にかけての藤の見頃には、園内の藤棚が紫の花穂で埋まり、大泉水を背景に鑑賞できる眺めが評判です。

夏はアジサイやサルスベリ、ムクゲが咲き、秋にはヒガンバナ、キンモクセイ、ツワブキ、そして紅葉と移り変わります。ケヤキやサクラの黄葉・紅葉が大泉水の水面に映り込む11月の景観も、来園者を引き付ける見どころのひとつです。

都会の庭園ならではの特別な眺め

旧芝離宮恩賜庭園と高層ビル
旧芝離宮恩賜庭園と高層ビル

旧芝離宮恩賜庭園が他の大名庭園と一線を画すのは、近代的な建造物との共存という点です。大泉水の水面には、周囲の高層ビルや、晴れた日には東京タワーが映り込みます。園の北側を走る東京モノレールの車窓からは庭園を俯瞰することができ、逆に庭園内からは走り抜けるモノレールを眺めることができます。新幹線が水面に映るという唯一無二の光景も記録されており、「江戸と現代が交差する庭園」としての価値は、純粋な歴史遺産という枠を超えています。

土曜・日曜日の午後2時(7・8月を除く)には無料の庭園ガイドが実施されており、約45分から1時間かけて庭園の歴史や見どころを丁寧に案内するプログラムが設けられています。

旧芝離宮恩賜庭園と浜離宮恩賜庭園——切っても切れない「潮入の池」の系譜

直線距離で約300メートル、徒歩で15〜20分ほど北に歩いた場所に、浜離宮恩賜庭園があります。この二つの庭園は、単なる「近隣スポット」以上の深い歴史的つながりを持っています。

同じ「潮入の庭」だった——しかし運命は分かれた

旧芝離宮恩賜庭園と浜離宮恩賜庭園は、ともに江戸時代に江戸湾(現・東京湾)の海水を池に引き込んだ「潮入の庭」として造営されました。潮の干満に応じて池の水位が変わり、刻々と移ろう景観を楽しむこの様式は、臨海部の大名庭園に特有のものです。

しかし現在、都内でこの潮入の機能を実際に維持しているのは浜離宮恩賜庭園のみです。旧芝離宮恩賜庭園は、大正13年(1924年)に東京市への下賜後、工場汚水が池に侵入するようになったことを受けて潮入を停止し、以降は淡水の庭園として維持されてきました。園内に残る「海水取り入れ口跡」は、かつて旧芝離宮もまた潮入の庭であったことを示す数少ない痕跡です。

同じ起源を持ちながら、一方はその機能を失い、もう一方は現代にいたるまで海とのつながりを保ち続けた——この対比こそが、二つの庭園を並べて訪れることの最大の意義といえます。

同時期に「離宮」として隣り合っていた明治の時代

両庭園はともに明治維新後に皇室の管轄に移り、「芝離宮」(旧芝離宮)・「浜離宮」として並立していました。旧芝離宮は明治8年(1875年)、浜離宮は将軍家の別邸から皇室の離宮へという変遷をたどりました。離宮時代には外国の賓客をもてなす迎賓の場として機能した点も両者に共通しており、明治の東京湾岸に二つの離宮が並ぶという特異な景観が生まれていたことになります。

大正期の「廃止危機」を共に乗り越えた

関東大震災(1923年)で壊滅的な被害を受けた後、復旧途上の大正13年(1924年)3月頃、「浜離宮と芝離宮を鉄道施設や魚市場にする」という噂が広まりました。両庭園が同時に廃止の危機にさらされたこの事態に対し、識者や庭園協会が猛烈に反発。朝日新聞が「両離宮遂に払下げ、魚市場に内定」と報じるなど社会問題となりましたが、宮内省側が「将来においても払下げの意思がない」と公表したことで事態は収束しました。

結果として旧芝離宮は大正13年4月に公開、浜離宮は戦後の昭和21年(1946年)4月に公開と、それぞれの道筋をたどることになりましたが、この「廃止危機」を共に乗り越えた経緯が、現代まで両庭園が都立文化財庭園として並存する礎となっています。

「園結びチケット」で両庭園をセットで巡る

現在、浜離宮恩賜庭園の入場窓口では両庭園を割引価格でセット入園できる「園結びチケット」が販売されています(一般400円、65歳以上200円)。有効期限はなく、当日以外での利用も可能です。「潮入の機能を失った庭園」と「今も海とつながる庭園」——約300メートル離れた二つの庭園を一日で巡ることで、江戸の臨海大名庭園文化の全体像を立体的に体験することができます。

合わせて訪れたい周辺の観光スポット

旧芝離宮恩賜庭園の周辺には、徒歩圏内に歴史的・文化的スポットが集積しています。浜離宮恩賜庭園との歴史的な関係性については前節で詳しく触れたとおりであり、合わせて訪れる価値は非常に高い庭園です。

増上寺

浜松町駅から徒歩約10分、芝公園の中心に位置する浄土宗の大本山です。1393年に創建され、徳川将軍家の菩提寺として江戸時代に大きく発展しました。境内には三解脱門(三門)が現存し、境内からは東京タワーを望む眺望が楽しめます。徳川歴代将軍の霊廟など歴史的な構造物も残されています。

芝公園

増上寺と隣接する都内有数の公園で、東京タワーを最も間近に感じられるスポットのひとつです。芝生広場での休憩や、東京タワーの足元まで足を伸ばすことができます。旧芝離宮恩賜庭園からは徒歩約10〜15分の距離です。

竹芝桟橋(竹芝客船ターミナル)

庭園の東側に位置する竹芝桟橋からは、東京湾を巡る水上バスや伊豆諸島・小笠原諸島への定期船が発着します。庭園散策の後に海側へと足を伸ばし、東京湾の眺望を楽しむルートも人気です。ウォーターズ竹芝には商業施設やレストランも集積しています。

周辺のおすすめ宿泊施設

芝パークホテル

浜松町駅から徒歩約8分、大門駅から徒歩約4分に位置する老舗ホテルです。半世紀以上の歴史を持ち、東京タワーを徒歩圏内に望む立地が特徴。館内に2,000冊以上の書籍コレクションを誇る「ライブラリーホテル」としての顔も持ち、旅の合間に静かな時間を過ごすことができます。増上寺や旧芝離宮恩賜庭園への散策拠点として適しています。

リッチモンドホテル東京芝

大門駅A6出口から徒歩2分、浜松町駅からも徒歩6分という好立地のビジネスホテルです。全室Wi-Fi無料、加湿機能付空気清浄機、携帯充電器を完備しており、利便性を重視した滞在に対応しています。都内主要エリアへのアクセス性が高く、観光の拠点としても使いやすい施設です。

東京グランドホテル

芝公園に隣接し、東京タワーを客室から望める施設として知られています。「ユニバーサルデザインのツインルーム」も完備しており、幅広い旅行者が利用できます。旧芝離宮恩賜庭園、増上寺、芝公園という主要スポットへの回遊拠点として利便性の高い立地です。浜松町駅からは徒歩約10分の距離です。

入園料150円で触れる350年の歴史

上空から見た旧芝離宮恩賜庭園
上空から見た旧芝離宮恩賜庭園

東京・港区の中心部に、一般入園料150円で訪れることができる国の名勝が存在します。旧芝離宮恩賜庭園は、老中・大久保忠朝が江戸湾の埋立地に「楽壽園」を築いた17世紀から350年以上、幾度もの所有者の変遷と関東大震災の被害を経て現代まで姿を伝えてきた、東京が誇る最古級の大名庭園です。

小石川後楽園と並び、東京に残る江戸初期の大名庭園の一つとして、文化財保護法による国の名勝指定を受けています。大泉水に浮かぶ石組の中島、中国・杭州の西湖を模した石堤、小田原から運ばれた根府川石の護岸——ひとつひとつに大久保忠朝の時代からの物語が宿っています。

浜松町駅北口を出て1分で、この江戸の記憶の中に立つことができます。東京観光の中で、150円という入園料が歴史と庭園美の世界への扉を開きます。都内9つの文化財庭園を巡る旅の起点として、あるいは単独の訪問先として、旧芝離宮恩賜庭園はその時間に十分な価値を提供してくれます。

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